キャリアチェンジについて、誰かに相談しても本当の答えは返ってきません。そう思いませんか。
「やめたほうがいい」と言う人は、たいてい自分が同じ道を選ばなかった人です。「やったほうがいい」と言う人は、たいてい自分の選択を肯定したい人です。第三者の意見は、結局のところ、その人自身の物語の影でしかありません。
申し遅れました。佐藤健一と申します。東京大学経済学部を卒業して大手都市銀行に入行し、10年間勤めた後、退職して鎌倉で小さな花屋を始めました。今年で開業5年目になります。
このエッセイは、「正解」を提示するものではありません。「銀行員から花屋へ」と聞くと、ドラマチックな転身物語を期待されるかもしれません。実際の僕の選択は、もっと地味で、もっと臆病で、もっとたくさんの計算と迷いに満ちたものでした。
いま、転職や独立を考えていて、夜眠れないあなたの参考になれば幸いです。手放したもの、手に入れたもの。そのどちらも、できるだけ正直に書こうと思います。
キャリアの「正解」を歩んでいた30代前半
朝の通勤電車で感じた、説明できない違和感
新卒で大手銀行に入行したのは、2010年の春でした。リーマンショックの傷跡がまだ生々しく残っていた頃で、就活市場は冷え込み、東大の同期でも内定がもらえずに悩んでいる人が多かった時期です。
そんな中で「メガバンク」というカードは、当時の僕にとって最も合理的な選択でした。経済学部で学んだことを直接活かせる。給与は安定しているし、福利厚生も充実している。社会的にも一目置かれる職業です。両親も、まだ存命だった祖父も、内定の報告を心から喜んでくれました。
入行から数年は、無我夢中でした。配属された支店で個人営業を経験し、その後、本店の融資審査部に異動。20代後半には法人営業に移り、中堅企業の経営者と直接やり取りする立場になりました。スーツを着て、丸の内のオフィスに通い、夜は接待や会食、休日も資格試験の勉強で埋まる毎日です。
違和感が芽生えたのは、入行から7年目を迎えた、ある朝のことでした。
通勤電車の中で、ふと窓の外を眺めていたら、自分が今日どこに向かっているのか、瞬間的にわからなくなったのです。もちろん職場には向かっています。でも、その先の人生がどこに向かっているのかが、わからない。
その日、僕はその感覚を「疲れているだけだろう」と片付けました。
数字を扱う10年で身についたもの
銀行員の仕事は、極論すれば「数字を扱う仕事」です。
融資審査では、企業の決算書を何百枚と読みます。法人営業では、売上見込みや稟議書、シンジケートローンの組成資料を作ります。日々、数字、数字、数字。
この10年で、僕には確実に身についたスキルがありました。
- 財務諸表を読み解く力
- 事業計画書を作成・評価する力
- リスクとリターンを定量的に判断する習慣
- 利害関係者の合意形成を図る交渉力
- 期日と品質を守る徹底したプロジェクト管理力
これらは、どんな仕事に変わっても確実に役立つ財産です。後で詳しく書きますが、僕が花屋を続けていられる理由の半分以上は、銀行員時代に身につけた「数字感覚」と「事業計画力」のおかげだと、本気で思っています。
エリートコースの「中身」と「物足りなさ」
一方で、何かが満たされない感覚は、年を追うごとに強くなっていきました。
「やりがい」と呼ぶには、僕の感じていたものは少し別のものだった気がします。仕事自体は嫌いではないし、優秀な同僚や尊敬できる上司にも恵まれていました。給与も同年代の平均をはるかに超えていて、不満を口にしたら贅沢だと言われるような立場です。
それでも、何かが足りない。
たとえば、僕が一年かけて担当した数十億円規模の融資案件が成約しても、社会の何かが目に見えて変わるわけではありません。決算書の数字が動き、稟議書にハンコが並ぶだけです。これは銀行業務のあり方として正しいのですが、自分の人生の重さと釣り合うかどうかは、また別の話だったのです。
「自分の手で何かを作っている感覚がない。」
それが、当時の僕が一番苦しかったことだったと、今になって言語化できます。
鎌倉の小さな花屋で、人生が動き出した
きっかけは妻との週末旅行だった
転機は、2018年の春に訪れました。
妻と週末に鎌倉を訪れた、ある日のことです。当時、僕たちは結婚3年目で、子どもはまだいませんでした。仕事で疲れていた僕を気遣って、妻が「鎌倉でゆっくり歩こうよ」と提案してくれたのです。
北鎌倉の駅で降り、紫陽花を見ながら明月院や東慶寺を回り、小町通りの喧騒を抜けて、由比ガ浜に向かう途中でした。一本入った路地に、小さな花屋があったのです。
店構えは決して派手ではなく、間口は2間(約3.6メートル)ほど。古い民家を改装したような佇まいで、軒先に置かれた木箱の中で、季節の花が穏やかに陽を浴びていました。
何の気なしに足を止めた僕に、妻が「入ってみる?」と声をかけたのを覚えています。
ラナンキュラスを買った、あの日の記憶
店に入ると、店主と思われる女性が「いらっしゃいませ」と柔らかく声をかけてくれました。年齢は60代後半くらいでしょうか。手元に花ばさみを持ち、ちょうど花束を作っている途中のようでした。
僕の目に飛び込んできたのは、白とピンクのグラデーションが美しいラナンキュラスです。何枚もの花弁が幾重にも重なっていて、まるで紙細工のようでした。
「この花、なんですか」と尋ねると、店主はにっこり笑って、ラナンキュラスの種類や、その日の入荷の経緯、家での飾り方まで丁寧に教えてくれました。
僕はその一束を買って、東京の自宅に持ち帰りました。
その晩、リビングのテーブルにラナンキュラスを生けて、僕はずっとそれを見ていました。月曜日の朝になっても、まだ眺めていました。
何かが、心の中で動いていました。
「店の人になりたい」という静かな衝動
それから僕は、休日のたびに鎌倉を訪れるようになりました。
最初は妻と一緒に、後には一人で。あの花屋に通い、店主と少しずつ言葉を交わすようになりました。彼女は60代でその店を一人で切り盛りしていて、もう何十年も鎌倉で店を続けていると教えてくれました。
「お花の仕事って、どうですか」
ある日、思い切って僕は尋ねました。彼女は少し考えてから、こう答えました。
「楽じゃないですよ。でも、私には合っていたみたいです。お店をやっていると、お客さんの人生のいろいろな場面に関われるんです。誕生日とか、結婚式とか、お葬式とか。一輪の花が、誰かの一日を変えることがあるんですよ。」
その言葉が、ずっと僕の中に残りました。
「店の人になりたい」
そう思った瞬間が、いつだったかは正確には思い出せません。気がついたら、その想いは僕の中で確かなものになっていました。
ただし、すぐに辞表を出すような無謀なことはしませんでした。これからの章で、その理由を書きます。
キャリアチェンジで手放したもの
銀行員としての年収と社会的信用
正直に書きます。手放したものは、決して小さくありません。
退職時、僕の年収は約1,200万円でした。35歳で年収1,200万円というのは、メガバンクの中では平均的な水準ですが、世間一般から見れば十分高い水準です。住宅ローンも組みやすいし、クレジットカードの審査も通りやすい。社会から「信用できる人」として扱われる、そういう立場でした。
花屋の初年度の年収は、税引き前で約180万円。家賃や仕入れ、設備投資を引いた手残りベースだと、もっと少ない時期もありました。
「年収が10分の1以下になりますが、本当にいいんですか」
退職前、人事部の上司に何度も念を押されました。僕自身、何度も自問しました。妻にも、「本当にこの選択でいいのか」と繰り返し確認しました。
幸い、僕たち夫婦には子どもがおらず、貯金もある程度はありました。妻は薬剤師の資格を持っていて、彼女の収入で生活の最低ラインは守れる見込みでした。それでも、年収の落差は身に染みました。
同期との距離、消えていった人間関係
意外だったのは、人間関係の変化です。
退職してから、銀行員時代の同期や同僚との関係は、自然に薄れていきました。決して喧嘩別れしたわけではありません。連絡先を消したわけでもありません。ただ、共通の話題が減っていったのです。
彼らはまだ「次の出向先はどこか」「同期の誰が早く支店長になったか」「経済情勢の変化に銀行はどう対応するか」といった話題で盛り上がります。一方の僕は、季節の花の入荷の話や、配達ルートの最適化、近所のおばあちゃんが倒れたという話をしています。
接点が、減っていく。
これは、誰が悪いわけでもありません。人生のレイヤーが変われば、付き合う人も自然に変わるものです。それでも、寂しさを感じなかったといえば嘘になります。
代わりに、新しい人間関係が生まれました。これは「手に入れたもの」のところで書きます。
「安定」という名の幻想
そして、最も大きく手放したのは、「安定」という感覚かもしれません。
銀行員時代、僕は毎月決まった日に給与が振り込まれることを当然だと思っていました。ボーナスも、退職金も、企業年金も、全部当然のものとして人生設計に組み込んでいました。
花屋を始めてから、その「当然」が消えました。
毎日、現金商売です。お客さんが来なければ、その日の売上はゼロです。台風が来れば仕入れの花が傷み、感染症が流行すれば、結婚式や送別会が一斉にキャンセルになります。一人でやっている以上、自分が病気になれば収入も止まります。
ただし、「安定していた」と思っていた銀行員時代も、本当に安定していたかというと、それは別の話です。実際、僕の在籍中にも複数の同期が早期退職したり、関連会社へ出向になったりしていました。
厚生労働省の雇用動向調査によれば、近年の日本では転職者数(入職者のうち、転職入職者)は依然として高水準で推移しており、終身雇用の前提はすでに揺らいでいます。「安定」は与えられるものではなく、自分で作り出すものなのだ、と今は思います。
キャリアチェンジで手に入れたもの
自分の人生を、自分で設計する感覚
手に入れたものの中で、最も大きいのは、たぶんこれです。
「自分の人生を、自分で設計している」という感覚。
銀行員時代、僕の毎日は会社が決めていました。何時に出社し、どの案件を担当し、どこに出張し、いつ昇進するか。そういう骨格はすべて組織の論理で動いていて、僕の役割はその枠の中で「優秀であること」でした。
花屋を始めてからは、すべて自分で決めなければいけません。何時に開店するか、何を仕入れるか、いくらで売るか、定休日をいつにするか。誰も決めてくれません。
これは、自由でもあり、重荷でもあります。
でも、自分で決めたことの結果が、直接自分に返ってくる。「ラナンキュラスを多めに仕入れたら、ホワイトデーによく売れた」「火曜定休にしたら、お客さんの生活リズムに合っていて固定客が増えた」。そういう小さなフィードバックの積み重ねが、僕にとっての「生きている感覚」になりました。
季節と共に生きるリズム
花屋という仕事は、徹底的に「季節の仕事」です。
春は桜やラナンキュラス、芍薬。夏はひまわりやグラジオラス。秋はダリアやコスモス、リンドウ。冬はスイートピーやアマリリス、椿。仕入れる花が、毎月、毎週、変わっていきます。
これに合わせて、僕の生活も変わりました。
銀行員時代、季節を意識するのは、せいぜい衣替えと年末年始くらいでした。今は違います。早朝、市場に仕入れに行くと、空の色も、空気の匂いも、市場に並ぶ花の顔ぶれも、毎週違います。鎌倉の街並みも、紫陽花の季節、紅葉の季節、雪の朝、と表情を変えます。
人間は、本来、こういうリズムで生きていたのではないだろうか。
そう思える瞬間が、僕には何より嬉しいのです。
花を介して生まれる、新しい繋がり
そして、新しい人間関係が生まれました。
うちの店には、いろいろな人が訪れます。
- 毎週末に奥さんへ花を買いに来る、80歳のお爺さん
- 結婚式のブーケを相談しに来る、若いカップル
- お母さんが亡くなった日に、その人が好きだった花を買いに来た娘さん
- 卒業式の朝、先生に渡す花束を選びに来た中学生
この人たちと交わす数分の会話が、僕にとってかけがえのないものになりました。
「ありがとう、これでいい一日になりそう。」
そう言われて店を出ていく姿を見送るとき、僕は自分の仕事に、確かな手応えを感じます。
銀行員時代に動かしていた何十億円という金額より、今ここで売る2,000円の花束のほうが、僕にとっては重い。それは事実です。社会全体への貢献の大きさで比べれば、銀行員のほうが大きいのかもしれません。けれど、「自分の人生を自分で生きている」という感覚は、今のほうが圧倒的に強いのです。
それでも残る「銀行員時代の自分」
数字感覚は経営に直結している
ここで、誤解されたくない大事なことを書いておきます。
「銀行員を辞めて、自由な花屋になった」と書くと、まるで前職を否定したように聞こえるかもしれません。けれど、そうではないのです。
僕が花屋を5年間続けてこられたのは、銀行員時代に身につけた数字感覚があったからこそです。
開業前、僕は1年以上かけて事業計画書を作りました。家賃、人件費、仕入れコスト、光熱費、運転資金、すべての数字を細かく試算しました。月間売上が何万円を切ったら閉店するかという撤退ラインも、最初から決めていました。
中小企業庁が毎年公表している小規模企業白書によれば、新規開業した小規模事業者のうち、5年後に廃業している割合は決して低くありません。「好きだから始めた」だけでは続かないのが、商売の現実です。
僕の店が黒字に転じたのは、開業から2年7か月後でした。この間、僕は毎月、Excelで損益計算書を作り、キャッシュフロー表を更新し、銀行員時代と同じ厳しさで自分の事業を評価し続けました。
リスク管理の発想は今も手放さない
銀行員時代に最も鍛えられたのは、「最悪のシナリオ」を考える習慣です。
融資審査では、企業がどんな状況で返済不能になるかを徹底的にシミュレーションします。これは商売を始めると、そっくりそのまま自分の事業に活きてきます。
僕がやっているリスク管理の例を、いくつか挙げます。
- 売上の70%以上を一つのチャネル(来店客)に依存しないよう、ECサイトと法人需要を意識的に育てる
- 仕入れ先を複数持ち、災害や流通停止のリスクを分散する
- 6か月分の固定費を現金で確保し、突発的な事態にも耐えられる体力を保つ
- 健康保険、生命保険、所得補償保険を適切に組み合わせる
こうしたリスクヘッジは、商売を「ロマン」だけで語る人にはできません。逆に、これがあるからこそ、僕は日々の仕事で「花」というロマンチックなものを扱えるのだと思います。
二つの自分を統合するということ
キャリアチェンジは、過去の自分を捨てることではない。
これが、5年間花屋をやってみた僕の結論です。
僕の中には、今も銀行員時代の自分が残っています。決算書を読む目、リスクを計算する頭、稟議書を書く論理。それらは、花屋になったからといって消えていません。
むしろ、それらが「花屋としての佐藤健一」を支えているのです。
逆に、花屋になってから手に入れた感覚、お客さんの表情を読む力、季節の機微を感じる感性、目の前の一輪の花に集中する集中力。これらも、もし将来また別の仕事をすることがあれば、必ず役立つでしょう。
人は、過去のすべてを背負って次の場所に行きます。それを「捨てる」と表現する必要はないのだと、今は思います。
キャリアチェンジを考えているあなたへ
「逃げ」ではなく「向かう」転職を
ここまで読んでくださったあなたが、もし今、キャリアチェンジを考えているなら、一つだけお伝えしたいことがあります。
「今の仕事から逃げたい」ではなく、「あの場所に行きたい」という動機で動いてください。
似ているようで、この二つはまったく違います。
「逃げたい」だけで動くと、次の場所でも同じ違和感を抱えます。なぜなら、その違和感の正体が「自分が何をしたいか」ではなく「自分が今何が嫌か」にしかないからです。
「向かいたい場所」がある人は、たとえその道のりが厳しくても、続けられます。なぜなら、目的地が見えているからです。
僕の場合、「銀行員が嫌だ」だけでは辞めなかったでしょう。「鎌倉の路地で、季節の花を扱う小さな店をやりたい」という具体的なイメージがあったから、辞められたのです。
経済的な準備の現実的な目安
精神論だけでは、キャリアチェンジは成立しません。
僕が個人的におすすめしている準備の目安を、参考までに書いておきます。
| 項目 | 目安 |
|---|---|
| 開業前の生活費の貯蓄 | 最低24か月分 |
| 開業資金(業態による) | 借入なしで賄える範囲+運転資金6か月分 |
| 配偶者・家族の生活費の確保策 | 最低18か月分 |
| 失敗した場合の再就職先のアタリ | 2〜3パターン想定 |
特に「失敗した場合のリカバリープラン」は、案外多くの人が見落とします。挑戦するからには、失敗の可能性も真剣に考える。これが、銀行員時代に学んだ最も大事なことかもしれません。
なお、独立開業に関する情報は、J-Net21(中小企業ビジネス支援サイト)などの公的機関のサイトに、相談先や支援制度が網羅されています。一度覗いてみると、孤独感が少し和らぐかもしれません。
家族との対話を、何度でも
最後に、最も大事なこと。
家族との対話を、何度でもしてください。
僕は妻と、退職を決める前の1年半、ほぼ毎週末、このことについて話しました。お互いの不安、希望、現実的な制約、それらを全部テーブルに乗せて、何度も何度も話しました。
決断は一人ではできません。少なくとも、家族がいる場合は。
「家族に反対されたから諦めた」と後で言いたくないなら、納得してもらえるまで話す。それしかありません。逆に、家族が納得してくれない選択は、たぶん、まだ準備ができていない選択です。
僕の妻は、最後にこう言ってくれました。
「あなたが、しおれそうな顔で銀行に行く姿をもう見たくない。それだけ。」
その言葉に、僕は救われました。
まとめ
「東大卒、銀行員、花屋」と並べると、なんだか劇的な物語のように聞こえます。けれど、僕の選択は、何百日もの計算と、何十回もの対話と、何度も繰り返した自問の積み重ねでしかありませんでした。
キャリアチェンジで、僕は確かに多くを手放しました。年収、社会的信用、人間関係、安定の感覚。けれど、それと引き換えに、自分の人生を自分で設計する感覚と、季節と共に生きるリズム、新しい繋がりを手に入れました。
どちらが正解かは、人によります。
僕の物語が、あなたが今夜、布団の中で考え事をするときの、ささやかな材料の一つになればうれしいです。
無理のないペースで、自分にとっての「向かいたい場所」を、ゆっくり探してみてください。